プロペラ機で札幌から利尻島へと入る。利尻山を中央に抱く人口およそ6000人の島。観光と漁業が主たる産業だが、人口減が続いている。とりわけ、島内で仕事を得られない若者たちの流失が激しく、あと何年かしたら、百人単位の老人たちの島になってしまうのではないか、とホテルの女主人は危惧していた。夏のハイシーズン中はものすごい数の人々が島を訪れるというが、やはり、秋から冬に向かう島の風景はどことなく寂し気だ。町をゆく人も少ない、というよりもほとんど人が歩いていない。取材を予定しているウニとアワビの漁師の方は本日忙しく、明日の朝お会いすることに。電話で話した感じでは、なんとなく面倒くさそうで、うまくいくかどうかやや心配。海に沈む見事な夕陽を拝みつつ、1日が終わる。

 小澤さんの70歳の誕生日を祝うコンサート聴きに松本へ。昼、駅近くの老舗蕎麦屋へ。昔からの有名店だが、その味にはがっかり。蕎麦の風味も凛とした主張もまったくない、乾麺をただ茹でたような間の抜けた味。つゆは明らかに甘すぎる。店員のおばさんも蕎麦同様だれている。名前にひかれてくるのだろう、それでも店は登山客らでうまっている。入ってきた客が座ろうとして、蕎麦が落ちているのに気づき、店員に席を替えたいと申し出たりしている。去年、小澤さんたちと行った浅間の蕎麦屋はとてつもなくうまかったのに…。一食損をした。看板にあぐらをかかず、精進することって意外に難しいんだな。まあ、看板を食べに来る人もいるわけで、経営的にはなんとかなってしまうのかもしれないけど。
 夜のコンサートは素晴らしかった。小澤征爾、ロストロ・ポーヴィチ、尾高忠明の指揮による演奏。いずれも決して看板にあぐらをかくことなく、日々精進してきた人々の音楽だ。クラシックだけでなく、和太鼓あり、ジャズありのヴァリエーション豊かな楽しい演奏会だった。小澤さんが70歳というのも信じられない。ステージ上で皆から祝われているときの小澤さんは少年のようでもあった。純粋で、謙虚で、奔放で、繊細で、そして自己に厳しい小澤さんのような人になることが、私の遠い目標だ。こういうかっこいい諸先輩にもっともっと会いたいと思うが、そう簡単にはいない。すごい人だと思って近づいてみると、意外にせこかったり、金に汚かったり、威張りんぼうだったり。
 コンサート終了後、友人たちと松本市内の飲食店へ。去年も入った店。入店時間が遅いので、深夜までやっているを探して結局はここになった。モダンな居酒屋という感じの店なのだが、この店がまたいけない。しょっぱい湯葉巻き、味のついていない鶏の唐揚げ(私は食べないので他の人の話)、しょっぱく食感の悪い餃子。まずい店の典型で、塩味がもうバラバラなのだ。家庭料理の領域に達していない料理が続々と出てきたのである。皿がテーブルにのった瞬間、あ、これはしょっぱいぞ、とわかってしまうぐらいの料理なのだ。ワインを残したまま、店を出る。松本の店は本当にダメだ。何がダメって、先の老舗蕎麦屋にも、このモダン居酒屋にも客がそれなりに入っているのだから(それとも観光客なのか?)。
 当然まだ空腹で、駅近くの有名居酒屋チェーンへ。料理は全然こっちの方がまとも。もちろん、おいしい!とはならないけれど、別に料金と味のバランスでいけば不満はない。このありきたりのチェーン店に入ってほっとしているんだから、モダン居酒屋のひどさがわかろうというもの。 残念ながら、いい音楽を聴いたあと、おいしいお酒と食事で幕、とはならず。

 松本市で9月8日まで延々と繰り広げられる「サイトウ・キネン・フェスティバル」のオープニングコンサートに行ってきた。それはそれはまさに筆舌に尽くしがたい素晴らしいコンサートだった。
 「ふれあいコンサートT」と冠された演奏会は、前半が金管、後半が弦楽のそれぞれクインテットによるものだったのだが、ともに密度の濃い演奏だったのだ。
 とりわけ、ヴァイオリンのロバート・マン、渡辺實和子、ヴィオラの店村眞積、赤坂智子、チェロの原田禎夫からなる五重奏団は、圧巻だった。まあ、このメンバーの名前を見れば、それだけで「すごそう」というのはわかるわけだが、いや、震えました。曲目はモーツアルトの「弦楽五重奏第3番 K516」。実のところ、チェロの原田禎夫さんが出るっていうんで行ったにすぎなかったわけだが、本当に聴けてよかった、という感じ。まず、御年85歳のロバート・マンのヴァイオリンがすごかった。前年インタビューしたときは、「まあ、年だから来年生きてるかわかんないよ」と冗談まじりにおっしゃっていたのだが、もう音だけ聞いたら年なんてまるで感じない。もちろん、渋さと艶は年だからこそ出ていたわけだが、それよりも驚いたのは、この日使用していたヴァイオリンがストラディヴァリウスではなく、160万円ほどの楽器だったということ。メンバーの一人がいみじくも言っていた。「弘法筆を択ばず」と。それにしても五人の息の合い方は見事で、とりわけピアニシモのところでは繊細な音のなかにギュッとつまった音圧を感じるという不思議な体験をさせてもらった。はあ、凄みのあるピアニシモってこれなんだな、と。そして、聞いている間のとてつもなく幸福な時間の流れ。たった一曲の音楽が人をこんなに気分良く、そして、クリアにさせてくれるんだ、ということを改めて実感した。何か自分の身の回りについてた穢れが落ちていくような感じさえしたのだ。コンサートを聴いた別のオーケストラの気鋭ヴァイオリストも「いや、これだけのモーツアルトは滅多に聴けないよー」と感嘆していた。アマチュアもその道のプロも同時に感動させる音楽っていうのは本当に質の高い音楽だな、と思う。そして、この濃厚なモーツアルトをもう2度と生で聞くことはできないというはかなさがまた音楽のよさでもあるのだろう。

 機内で「ミリオンダラー・ベイビー」など数本の映画を見、『ダ・ヴィンチ』誌の新刊書評用の『ウナギのふしぎ』(日本経済新聞社)を読む。ほとんど眠れず。SASの座席、心持ち居心地が悪いような気がする。足下になにやら変な機械があるせいか。
 成田からは成田エクスプレス。数年前までは、自分のクルマを近くの駐車場に預け、それに乗って帰っていたが、いまや電車派に。しかし、この成田エクスプレス、問題もある。昨日、車掌に思わず文句を言いそうになった。というのも、私が乗った8号車、1から8ぐらいまではびっちり人が座っているのだが、あとの半分ががら空きなのだ。成田空港出発後、次に停車するのは東京駅だから、乗ってくる人がいるはずもない。つまり、そういう切符の売り方をしているのだ。成田から乗る人は、ほとんどが長旅で窮屈なエコノミーに何時間も閉じこめられ疲れて帰る人である。2席に一人であればどんなに楽か。私は、発車後すぐに空いている席に移ったが、他の人たちはそのまま2人席に2人で座り続けていた。細かなダイヤが管理できるのであれば、座席の管理なんてどうってことないだろうに。乗客の快適さなんて本当は考えていないのだ。
 私が移ったがらがらの席の方の後ろには一人だけ外国人が座っていた。車掌との問答から彼はラオス人であるらしいのだが、彼は切符なしで乗って、払う金を探しているようだった。ポケットをまさぐり、鞄をひっくり返しと探している。私は、このまま払わないで逃げ切るか、と固唾を呑んで見守っていた。払えよ、というよりも、うまく逃げちまえ、という感じで。というのも、その前の座席システムの件で腹が立っていたから。その間、車掌は彼の横に棒立ちしている。ラオス人は少しだけ日本語は喋れるようだが、流暢にはほど遠い。どうやら新宿まで行きたいらしいが、いま彼と私が乗っているのは東京駅で切り離され横浜に向かってしまう車両である。しかし、車掌は何も告げずに怒ったように金だけとって行ってしまった。このままじゃ、横浜行っちゃうぜ、言わないとな、と思っていたら、車掌が戻ってきて、「新宿行きは、あっちね、あっちの1から5までね」と日本語で説明している。よかったよかったと思っていたら、しばらくしてそのラオス人が私のところへ来て、不安そうな顔で「私は新宿へ…」と英語で言い始めたので、私は、すらすらと「あなたが乗らなければならないのは1号車から5号車で…、東京駅に着いたら…」とまた英語で返していた。全部内容を盗み聞きしていた上で、想定内の質問に、想定内の答えを返すのはさほど難しくはない(問題は想定外の質問が来たときである。英語力をつけなければ、というのは、20年来の私の課題だ)。ラオス人は本当にほっとした顔をして、礼を言って席へと戻った。
 いずれにしても、成田エクスプレス、もうちょっと親切でもいいんじゃないか。少なくとも空いている電車で席をぎゅうぎゅうに詰めるのだけはやめてほしい。まあ、自分で判断して勝手に移ればいいわけだが。でも、日本人は根っからまじめだから…。

 オウルを昼にたち、コペンハーゲン経由で帰国の途へ。コペンハーゲン空港(正式な名前は知らない)内の免税店を流すも、ヒットするものを見い出せず。ものすごい数の店が並んでいるのだが、魅力的な商品が一つとしてない。しかも、計算してみると、意外に高い。日本人だけでなくブラジル人もイタリア人も、みな抱えきれないほどの免税品を買っているのだが、私は2時間近くほっつき歩いていても、手を出す気にはなれなかった。たとえば、オー・ド・トワレなんかでも、同じ商品がマツキヨの方がよほど安いのである。ワインもまた安売り店と同じか、むしろ高いものまである。重い思いまでして持って帰る理由がないのだ。おそらく、空港内のテナント料がそのまま商品にはねかえっている結果だろう。結局、何も買わずに、飛行機へ。最近は、どこの国の空港でもこんな調子だ。

 前日パリ在住のカメラマン藤本氏と合流、午後、館野泉夫妻とオウルンサロの教会などで撮影し、インタビュー。インタビューの詳細は後日。
 夜、フィンランド入りして以来7つ目となるコンサートへ。新田ユリさん指揮によるシベリウス、武満徹などを弦楽オーケーストラで聴く。フィンランド人を中心にした楽団だが、実に心温まる演奏だった。特に、ソロをとったバイオリンの高木和弘氏(ドイツ・ヴェルテンベルグ・フィルハーモニー首席コンサートマスター=でもまだおそらくかなり若い)の演奏は秀逸。そのテクニックにももちろん目を見張ったが、吐き出される音に強く胸を打たれた。繊細で、力強くて、生命力があって。日本で聴くのが楽しみだ。
 そして、館野夫妻と別れのとき。音楽家として、人間として、尊敬できる人にまた出会えた。フィンランドで得たものは思いのほか大きかった。館野泉氏の魅力については、またゆっくり記してみたい。

 3日間で6つのコンサートに行った。当然、コンサートは夜に行われるわけで、ホテルに戻ってくるのは毎日深夜0時近く。その結果、一回としてまともな食事にありついていない。レストランに行くこともなければ、ワインを飲むこともない。昨晩も、オウルンサロのホテルに戻ったのが11時半。すでにレストランは終わっていて、余り物のスープとサラダだけを好意で頂戴する。すでに食事を終えられていた館野さんご夫婦としばし談笑。本当に素敵なご夫妻だ。書きたいことは山ほど。この音楽祭に関しては、小冊子の一つも書けそうな感じである。

 午後、館野泉さんの奥様マリアさんらとともにカーフェリーで本島の向かいにあるハイルオトへ。オウルンサロ音楽祭と言っても、オウルを中心に結構広域でやってるのだ。いずれも、テーマは「自然との共生」といった感じだろうか。ハイルオトも緑あふれる美しい島だった。
 夜7時からはいよいよ館野泉さんのコンサート。NORDGREN作曲の小泉八雲をテーマにした曲などを披露。NORDGREN本人もいらしてた。学校の体育館ではあったが、アコースティックはこれぐらいの規模が快適だな、と改めて思う。
 その後、数十キロ離れたコンサートへ移動。古楽器によるモーツアルトを野鳥観察所の中で演奏するという趣向。回りは湿原で、野鳥の宝庫らしい。一曲目が終わる10時すぎ、ちょうど夕陽が森の中へと沈んでいく。そして訪れる白夜。こんな贅沢な時間と空間をわずか10ユーロで共有できるのだ。もし、日本でこの音楽祭が知れ渡ったら、シルバー世代のご夫婦とかが殺到するのではないか。
 コンサートの詳細はまた別途。



 オウルのホテルで9時間もの睡眠をとった私は、朝食をとりに一階のカフェへとおりた。9時半という遅い時間だったが、ブュッフェ形式の会場はもう100人近いフィンランド人(他の国の人もいるかもしれないが)でごった返していて、座る場所を見つけるのが大変だった。こういうとき、一人旅は結構面倒くさい。4人掛けに一人で座るのも憚れるし、朝から知らない人と英語で会話するのも面倒だし、と結構席選びには気を遣ってしまう。もちろん、東洋人なんて一人もおらず、かといって、外国の田舎町でよくある東洋人に対する刺すような好奇の目というのもそれほど強くは感じず、ただただ快適に食べたいという思いで私はチーズやらパンを皿にのっけていた。
 ちょうどそんなとき、2人席がぽっと空いたので、私はそこに素早く皿を置き、コーヒーとジュースを取りに行った。2人席に一人だったらいいだろう、これで誰にも邪魔されず食べれるぞ、と。で、戻ってきたら、そこに一人の30歳前後の男が座っているではないか。前に座っていた人の皿やらコップやらがあって私の皿にも気づかなかったのかもしれない。いや、私がその人が先に席をとっていたのに気がつかなかったのかもしれない。たしかにそこには真新しい飲み物も置かれていて変だなとは思っていたのだ。私が謝ると、「アーユージャパニーズ?」と訊いてきた。「イェス」と応えると、「いいよ、座って」と日本語で言うではないか。こんな場所で日本語を話すフィンランド人と会えるなんて、と私は興奮した。もしこれがイタリアだったら、もちろん少しは警戒する。そうやって近づいてくる輩が結構いるからだ。しかし、ここはフィンランドの北の果てに近い街である。
 夏休みを利用してオウルのロックフェスティバルに来ていた彼は、なんと日本語の通訳者だった。ステンレスなどの鋼材や機械関係で日本との橋渡しをしているという。日本には2年半住んでいた。その前は、フィンランドで日本語を学んでいて、計10年の日本語歴がある。うまいはずである。
 私は、オウルでクラシックの音楽祭があり、その取材で来たことを伝えた。館野泉さんというフィンランド在住のピアニストがいて、その方が音楽監督をしている音楽祭だと言うと、音楽祭のことは知らないが、その館野さんというピアニストは知っている、なぜなら小学生のときに彼が学校に来たことがあるから、と言う。彼は、オウルのさらに北にあるごく小さな町の出身らしいのだが、そこに館野さんが来たのだという。彼は、館野さんの話したことまで憶えていた。「日本語とフィンランド語には似た言葉があります。たとえば”カッカ”という言葉は日本語では閣下という意味です」と話したのだ。子どもたちはそのとき大喜びしたという。というのも、「カッカ」は、フィンランド語では「うんこ」という意味だったからだ。
 彼から、オウル付近の行くべき場所を教わり、アドレスを交換し、別れた。
 部屋から3分早くおりてきて広いカフェの奥の方に座っていたら彼とは出会わなかっただろうし、面倒だから朝食は抜くかと思ったら(実際一瞬そうも思った)一生知り合うことはなかっただろう。彼とはまたいつの日か合うかも知れないし、もう二度と会うことはないのかもしれない。
 いずれにしても、ある点とある点がこんなふうにうまく遭遇するという経験を何回も重ねてくると、「偶然は必然」という言葉に言いようのないリアリティを感じてしまうのである。

 6時からオウルンサロ教会で弦楽器によるオープニングコンサートが始まる。館野泉氏とともに聴く。ときどき館野氏が解説をつけてくれる。「このBoccheriniという作曲家は、没後ちょうど200年ということで、今年の音楽祭のテーマになっています」、「Tulindbergはオウル出身の作曲家。1814年に亡くなっていますが、この時代にこの小さな街にこんな素晴らしい曲を書く人がいたんですね」。外気の透明な空気とアコースティックな繊細な音が見事に重なるいいコンサートだった。
 コンサート後、場所を移し、オウルンサロの森の中の古民家でオープニングパーティ。演奏家や地元の人々100人ほどで、夜遅くまで(といってもずっと明るいのだが)飲んで食べた。館野さんのご家族、日本人演奏家、さらにはオウルンサロの姉妹都市北海道のタンノからの日本人留学生らもいた。地元の人がクレープを焼いたり、飲み物を提供したり、この手作り感、素朴さが「オウルンサロ音楽祭」の特徴なのだろう。

 コペンハーゲン、ヘルシンキを経てオウルという北の町に到着したのは、深夜12時近く。しかし、なんと、まだ明るい。白夜だ。迎えに来てくれた音楽祭の関係者のクルマで市内のホテルに向かう。髪の黒い20代の女性だ。もともと苦手な英語だが、疲れもあってさらに思うように喋れずもどかしい。しまいには会話が途切れた。そりゃそうだ、「あなた、生まれ、どこ」みたいなことしか喋っていないんだから。成田で買った金原ひとみの本を飛行機の中で読み始めたのがいけなかった。スピード感ある文章に引き込まれ、こっちまでハイ(しかも歪んだ)にさせられてしまった。結局ほとんど眠れないまま、丸1日を過ごしたあとだったからな。…と、これは言い訳。


 朝8時、有馬温泉「花小宿」をクルマで出て、ヴィッセル神戸の練習グラウンド「いぶきの森」へと向かう。古い木造に手を入れた宿だったので、上の部屋の音や左右の音が多少気になったが、前夜供された食事が素晴らしかった。ここ何年か行った温泉宿の食事としてはベスト。ワインは国産の「アルガ甲州」で、これも悪くなかった。おいしいものと出会ったときは幸せな気分になる。朝思い出してもまだ幸せ感が持続していたから相当なものだろう。
 「いぶきの森」に到着すると、サテライトの練習時間が変更になっていて、午後1時から御影工業高校と練習試合となっている。仕方ないので、一度神戸市内に戻ることに。途中、カズから電話が入る。「今日、1軍の練習は午前中で、僕ら2軍は午後からだから」と笑いながらカズが言う。サテライトを2軍と称し、自分を茶化すところがカズらしい。カズは、パベル監督になってから、先発メンバーどころかベンチにも入れず、18、19歳の選手たちに混じってサテライトでの練習を続けている。にもかかわらず、「腐った態度も見せず楽しそうに練習をしている」とカズのマネージャーから聞いて、どうしても見たくなって神戸までやってきたのだ。サテライトでやっている、と思うと胸が痛んだ。まったく無粋な監督としか言いようがない。カズにはもともと逆境を楽しむというか、それを糧にして前へ進んでいくようなところがあって、私はこれまで何度もそういうシーンに立ち会ってきた。ただ、今回のように、まったく試合に出る可能性がななくってしまったら、どうしようもない。J2の横浜FCへの移籍話も致し方ないというところだろう。
 結局、練習試合は相手が来ずに直前になって中止。気温がジリジリと上がってく中、紅白試合が始まる。グラウンド上は40度近いのではないか。
 練習後、引き上げてきたカズを報道陣が取り囲む。横浜への移籍話がほぼ決まりそうとあって、報道陣も20名近く集まって来ている。テレビも2台入っている。カズは淡々と契約が最終段階に入っていることを伝えると、炎天下の中で待ちかまえていたサポーターたちの方に歩いて行き、すべての写真撮影とサインに根気よく応じる。サインをもらいながら涙している人も何人かいる。4年半、カズがこのチームに何を残したかをよく知っている人々だ。神戸は実に大きな「核」を失うことになった。サポーターと違い、オーナーや監督は、カズの「重さ」をやはり本当にはわかっていなかったのか。
 カズのクルマについて、三宮方面へ。途中一度、峠の茶屋の駐車場にクルマを止め、電話で話し始める。しばし話したあと、再び動き出す。30分足らずで三宮に着く。いったいどこへ行くのだろうと思っていると、「40分トレーニングするからつき合ってもらっていい?」と、街中の雑居ビルに入っていく。こんなところにジムがあるのか、と思っていると、そこはなんとカズが個人的に借りている初動負荷のトレーニングマシンが置かれている部屋だった。自宅とは別にこんな部屋まで借りてトレーニングしているのか、と驚く。
 部屋に入ると、カズはスウェットに着替えながら言った。「さっき決まったよ、横浜。すごくいい条件で。それは、お金の問題じゃなくて、僕をそれだけ評価してくれているということだから。もちろん、お金も大事だけど、それだけじゃない。それは僕に対する期待の大きさであって、僕はそれに応えていきたい」。さっきの峠の茶屋でクルマを止めたときに、いくつか残っていた細かい条件もクリアになり、契約の話がまとまったのだ。
 トレーニングをしている間にもひっきりなしに電話がかかってくる。そのたびにカズは「決まりました」とか「横浜に行きます」と報告する。記者会見の日程や、7月30日の水戸戦(三沢競技場)から出場することなどが次々と決まっていく。部屋の大家さんがやってきて、「カズさん、せっかくいい人に入ってもらったって喜んでいたのに、ざびしくなるわ」と嘆く。
 38歳のカズは、自分の体を維持するために、これまでも惜しまず財を投入してきた。自分にフィットするマッサーを毎週東京から呼び寄せるだけでも年間費用はものすごい額になる。それはしかし、大好きなサッカーを少しでも長く続けていくための代償ということなのだろう。
 夜、事務所関係者や神戸在住の友人、仲のいい他チームの選手ら10人ほどで、ごくごく内輪の言ってみれば「移籍決定の祝宴」を市内の焼き肉屋で開く。大好きな神戸の街を去る一抹の寂しさはあるものの、カズの表情は晴れ晴れとしている。もちろん、新天地が必ずしもいい環境にないことはカズも知っている。けれども、どんなフィールドにせよ、とにかくピッチに立ち、ボールを追い、戦えることが嬉しいのだ。
 食事後、全員で「ゼンちゃんの店」に移動する。試合後、決まっていく店だ。開幕戦でゴールした晩もここを仲のいいみんなで訪れた。あの日、まさかシーズン途中でJ2に移籍することになろうとは夢にも思わなかったわけだが。